TOP魔法少女リリカルなのはR'rls>01

          ◆
 
     ――空。
 空がある。
 高く、広く、遠く――何処までも届く、果ての無い無窮の蒼がある。
 そして自分は、その只中にあった。
 着慣れない、黒衣の装束を身に纏って――。
 一度として伸ばしたことのない、長い金色の髪を靡かせて――。
 そして見たことの無い、無骨で、勇壮で、鮮烈な漆黒の斧を携えて。
 自分を【わたし】と呼ぶ“俺”は、迅雷の如く風を切って蒼穹を翔けていた。
 一人……否、独り。愛すべきはずの心通わぬ母に命じられるまま、【わたし】は瞬く星空に似た藍のように青い宝石を追っている。その先にある遠い何かにも届けと強く願いながら、手を伸ばす。
 その手が触れたのは、青い石でも、届かない何かでも、高い空でもない……柔らかな温もり。
 
――『ともだちに、なりたいんだ』
 
 そんな言葉と共に【わたし】の手を取ったのは、知っているけれど知らない誰か。
 短く二つに結んだ栗色の髪に、聖朴な白皙の衣裳、不屈を顕す熾紅の赤石。
 高町なのは、と。
 “俺”が知る()であるはずの【彼女】は、そう名乗った。
 
 ……そして。暗転――。
 
          ◆
 
 夢を見た。現実足り得ぬ空想、有り得べからざる幻想を。
 浅い眠りの中――“俺”は【わたし】として、不可逆を超えて反転した主観と共に生きていた。いや、反転した主観というよりも、それはむしろ共存する客観とでも呼ぶべきなのかも知れなかった。
 自分が自分であるという感覚はそのままに、けれどもその肉体を動かす意思は自らのものではなく、影のように一歩退いた瞳で己の姿を見続ける……そんな夢。
 まるで自分が幽霊にでもなって、自分自身にとり憑いているような。
 そしてその世界は、何か……とても寂しい色によって彩られていた気がする。
 知っている人間は必ず何かが違い、知らない人間がいる代わりにいるはずの人間がいない。同じ世界の色合いを変えた、登場人物を使い回した劇画のよう。
 しかし、俺にとってそうと感じられる風景もまた反転し、“俺”自身であるところの【彼女】はそれを幸せだと信じていた。何の疑いもなく、過去を振り切りながら、地を踏みしめる足に誇りを持って前に進んでいた。そこに至るまでの全てを自らの過去として正しく受け入れ、拒むでもなく、否定するでもなく。
 異なっていた過去、異なっている現在、異なっていくだろう未来。予定調和という名の不和。原因が違い、故に結果が変わり、必然が貶められて偶然が昇華する。
 それを夢と思えば夢は現。
 “俺”は【わたし】になり、“俺”は薄れ。
 それを現と思えば夢は夢。
 “俺”は“俺”のまま、【わたし】を拒む。
 
「――フェイト」
 
 夢の中の【わたし】はフェイト。フェイト・T・ハラオウン。
 強く生きよと託され、己を捨てよと命じられ、迷い、惑い、救われ、本当の自分を手に入れた――それは、ある一人の少女の名。
 
「――フェイト」
 
 だが違う、“俺”はフェイト。フェイト・テスタロッサだ。
 強く生きると己で誓い、迷わず、惑わず、ただ護ると、自分自身をそう定めた――それが、現に生きる本当の俺の名前だ。
 
「……フェイト?」
 
 そうだろうか?
 浅い眠りの海に流れ込む、意識という川がある。まどろみに漂う二つの境界はあまりにも曖昧で、自分が波打っているのか流れているのかすら、正しく判断することができない。
 わからない。夢の中でひどく安らいでいた自分が。
 理解できない。自分と同じくらい大切だと胸を張って言える二人を失って、なお力強く逞しく、笑顔を絶やさずに生きていた自分が。
 夢の中の“俺”は【わたし】。彼ではない彼女と共に歩む自分。
 現の“俺”は“俺”。いないはずの彼らと共に生きる自分。
 決して交わることのない、二つの運命。
 正しいのは、いずれのフェイトか――、
 
「フェイト、フェイト・テスタロッサ!」
 
 繰り返し響いていた呼び声に、俺は答えを導き出すことさえ侭ならぬまま、目を覚ました。
「ん、む……?」
 ――朝だ。
 胡乱な思考が、目蓋を透かして瞳を灼く熱さをそう認識するまでに、数秒を要した。二度、三度と頭を振って思考を霞ませる霧を振り払い、体を起こす。
 ふと、頬を通り抜ける空気の冷たさを感じた。手を当てる。……涙?
 その意味するところを理解するよりも前に、
「起きましたね、フェイト。おはようございます。今日もまた、一段と良い天気ですよ」
 無性に聞きたいと思っていた声が、耳に届いた。ひどく懐かしい感じさえする、昨日どころか毎日聞いているはずのその声が。5年、10年、15年……本当に長い間、失われて久しいものに再会したような気分だった。
 もどかしいほどの時間をかけて、開かれたカーテンから差し込む陽の光に慣れた目が、ようやくその姿を映し出す。その姿に、俺は何とは言えない不確かな違和感を覚えていた。
 夢の中に見た出で立ちとは似ても似つかない、すらりとした事務的な黒いスーツ。薄いブラウンの髪は白くて細い紐のようなリボンに結ばれて長く伸び、頭には隠していたはずの耳がある。それも獣の、猫の耳だ。微笑を浮かべた瞳は、以前母さんがかけていた眼鏡のレンズ越しに優しげに細められていた。
「……リ、ニス」
 リニス(、、、)。呼び親しんだその名を口にすることが、妙に困難に感じられた。カーテンを留めて窓を開けるその横顔を直視することは、それよりももっと難しい。
 そんな俺の挙動を、当のリニスは寝惚けているのだと思ったらしい。
「見知らぬ他人にでも見えましたか? 顔を洗って、しゃっきりしていらっしゃい」
 変わらない。変わっていない。何も。予定調和のように、日常と呼べる朝の風景が、いつもと全く同じ色をしてそこに佇んでいた。違うのはせいぜい、少しばかり今朝の方が昨日よりも暑いということくらい。
 季節は夏。高く広く遠い空から降り注ぐ痛いほどに白い陽の光と、対照的な黒いスーツに身を包んだリニスの微笑。全てが現実のものとして、確固たる存在感を持って其処に在る。
 昨日も一昨日も、明日も明後日も、何一つ変わることなく繰り返されていく確かなもの。
「ああいや……うん、起きてる。起きてるよ……だいじょうぶ」
 そう答えながら、頬を伝う暖かさをあくびのせいにして誤魔化した。
 帰ってきた、と。たかだか一晩の妙な夢から目を覚ましただけでそんな風に思ってしまう自分が、どうにも気恥ずかしかった。
 そう、夢だ。あの風を切る感覚も、痛みも、喜びも、温かさも。全て一晩のまぼろし。俺の現実は此処にしかない。此処だけが、俺の居るべき場所だ。他にはない……きっと。
「当たり前か……」
 俺の呟きに首を傾げるリニスに曖昧な笑みを返して、ベッドから降りる。
 その様子をリニスはじっと目で追っていた。――当然か。
「……はぁ。どうやら本当に、随分といい夢を見ていたようですね、フェイト。目を覚ますことがそんなに苦痛とは、養育者として痛恨の極みです。――無論、半分ほどは冗談ですが」
 はてさて、どっちの半分が冗談やら。開口一番、朝っぱらから痛烈な小言をのたまうリニスは、すっぱい涙が出るほど日常的だ。遅ればせながら、ようやくにして俺もその日常なんてものとの付き合い方を思い出す。
「はは、そうだな。品の無い冠詞を付けたくなるほど()い悪夢だったよ。俺はここにしかいられないんだって、つくづく納得させられた」
「それならば重畳。納得というものは大事です。ついでに、今現在という今日のこの時間が、面白くも無い月曜日の午前7時36分であるという事実も、納得してくれるとありがたいのですが」
 言って、いつの間に置いたのか、嫌味ったらしいくらい几帳面に折り畳まれた制服を指差すリニス。これを手に取り、広げて、袖を通して、タイを締めて、溜息をつくという一連の行動が、面白くも無い月曜日の午前7時20分(、、、、、、、)までに完遂しておくべき通例行事であり、儀式。
 さっさとメインディッシュを配膳したいウェイターを尻目に、オードブルのサラダをフォークで突付いているのが俺だというわけだ。つまるところ、リニスの冗談じゃない方の半分というのは、そっち(、、、)である。まったくもって得難い養育者を持てて涙が出る。無論それも、すっぱい方のだ。
 ……いやまあ、そんな忙しい朝の合間を縫って寝起きの悪い俺を起こしてくれることは、純粋にありがたい。すっぱくない涙だって出ようというものだ。何故なら彼女は、俺がこうして真っ直ぐ(ストレイト)なジャケットを手に取って広げて袖を通してタイを締めて溜息をついている間も側に侍り、どころか、彼女自身の手によって開かれた扉を俺が通り抜けるその瞬間まで、決して退室してはならないという厳然なルールに基づいて行動しているから。
 彼女は執事。俺の名乗る“テスタロッサ”に仕える、使いなのだ。
 そう。決して、仕えるべき人間に何の断りもなくいなくなったりはしない。絶対に。だからここにいる。そんな簡単なことにさえ、俺は少し、いや心底、安心した。
 幸せだけれど寂しいような、あんな夢はもう終わったのだ。ここには――この家にはちゃんと俺の知っているみんながいる。いるはずの誰かがいないなんてことはない。決して、ない。
 それを、
「で、」
 無意識に、俺は確かめようとしたのかも知れない。
「寝るのも早ければ起きるのも早い模範的お子様の、俺とのタイム差はどれくらいだ?」
 くい、とタイを高く締めながら、気付けばそんなことを口走っている自分がいた。
 それは、リニス同様いるはずなのにいなかったもう一人。少し抜けてて、背が低くて、いつまで経っても子供っぽさが抜けない、俺の姉にして妹。守るべき、俺の大切な家族の一人。
 
「――はて?」
 
 何を言い出すやら判りかねる、とでも言わんばかりのその仕草に、俺は瞬間ぎくりとした。
 いないのか? まさか? ここでも俺は、テスタロッサは、俺一人か……?
 嫌な予感が冷や汗になって頬を伝って顎から落ちる、そのすんでのところで、リニスは悪戯っぽい笑みを浮かべてあさっての方向へ目を向けた。その先にあるのは時計と、隣の部屋とを分かつ壁。壁の先には、彼女が寝起きする寝室がある。……はずだ。
「タイム差も何も、あの子はちゃんと既にゴールして、朝食というトロフィーを前におあずけを食ってる最中です。早く行ってあげませんと、また機嫌を損ねられますよ」
「あ……あぁ、そうか、そうだよな」
 思わず、息をついた。そうだ、俺はもう目を覚ましてる。ここは日常で、これは現実。嫌な予感は、ただの予感。ひどく意地悪く聞こえたリニスの冗談も、そう思うのは俺だけだ。
「フェイトのお望み通りにタイム差で言えば、アリシアのリードは24分といったところでしょうか。歴代記録2位タイの惨敗ですよ、フェイト」
 いないはずが、ない。リニスの言葉の中に確かに存在していたその名は、俺を安心させるのに十分な意味を持っていた。
 が、それに対して俺が何らかの言葉を返すべく口を開くその前に、
「――おや」
 日常をかき乱す朝の電話(、、、、)という異音が、それを遮った。
「すみません、フェイト。先に3人で朝食を」
「ん、ああ」
 俺やアリシアはケータイを持っているし、アルフはまあ、言わずもがな。リニスも仕事用の端末を持ってはいるが、実質家の固定電話にかかってくるものは全てリニス宛てである。加えて、この家の家主は名義上俺ということになっているが、実質的に管理しているのはリニスだ。使い魔にして執事という立場を鑑みても、この場合電話に出るべき義務を負っているのはリニスである。
 まあそんな取り決めは些細なことで、待ちくたびれたアリシアが電話を取る気紛れを起こすことはあっても、リニスが急がない理由にはならない。
「失礼します」
 それでもリニスは律儀に俺に一声かけて、慌しく階下へ降りていった。その背中を眺めながら、俺は不意に呟く。
「リニスに、アリシア」
 懐かしい、その名前。今の俺よりも十は幼い【わたし】が呼び親しんでいたその名前。或いはそれよりも4つほど歳を重ねた頃に見た、夢の中の夢で初めて巡り会えた彼女の幻へと向けた名前。そして――。
 
「俺の日常に、あるべき名前」
 
 ああ、俺は何度、今日という朝にその言葉を用いただろう。ただ一晩の夢から覚めたというそれだけなのに、何故だか不思議なほどに『帰ってきた』という思いばかりが胸中を占める。
 たった一晩の夢。たった一晩の夢という名の、長い旅。目を覚ましたのではなく、帰ってきたという錯覚。そして幾度も用いた日常という言葉は、帰ってきたというよりも更に遠く、返ってきたとさえ感じる。何処か遠くへ離れていってしまったそれが、長い時間をかけて戻ってきた、とでも言うような。
「――バルディッシュ。お前は、どうだ?」
 そうして俺は、気紛れに背中越しに問い掛けてみた。
 …………。
 答えは、ない。当然だ。黒い宝石をあしらった鞘に納まった、金の装飾が施された我が愛剣(、、)は、ただ黙して枕元で冷たい輝きを放っている。
 バルディッシュ。それは閃光の戦斧でも、輝く迅雷の鎌でもない。刃金を打って鍛えられた、ただの剣だ。夢の中、幾度となく聞いたあの声は……現の今にとっては幻想でしかない。
 そのことだけが唯一、夢から覚めた俺の心残りといえば心残りだった。この世界の何処にも、俺を《Sir》と呼ぶ声は響かないのだ。
「……しまった」
 そこでふと、気が付いた。
 俺は夢から覚めた今日になってからまだ、リニスに「おはよう」の一言を告げていなかったということに。

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